アルカーイダ
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アルカーイダ(アラビア語: القاعدة ラテン文字化: al-qāʿidah 英語: "Al-Qaeda")は、サウジアラビア出身のアラブ人、ウサーマ・ビン=ラーディンを指導者とするスンニ派ムスリム(イスラム教徒)による国際武装テロリストのネットワークとされる。アラビア語で、「アル(アラビア語: ال)」は定冠詞、「カーイダ(アラビア語: قاعدة)」は「座る」を意味する動詞「カアダ(アラビア語: قعد)」の派生名詞で「大本」、すなわち「基地・基盤・座」を意味し、英訳するとThe Base。日本ではアルカイダと記述されることが多い。実際に組織として存在しているかどうかは疑わしい[要出典]。
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概要
イスラーム主義急進派の系統に属し、反米・反ユダヤを標榜する。1990年代以降、主としてアメリカ合衆国を標的としたテロ行為を実行したとされ、多くの事件について自ら実行を認めている過激派、国際テロ組織である。
よく知られるように、組織のトップはウサーマ・ビン=ラーディンであるとされる。財力に恵まれていた彼は組織起ち上げのパトロンであった。一方、組織のナンバー2とされるアイマン・ザワーヒリーは理論家であり、ビンラーディンから見ても信仰と活動の先輩格であった。
2001年のアメリカ同時多発テロ事件を実行し、世界に大きな衝撃を与えたとされている。
そのため同年10月の有志連合諸国・北部同盟によるターリバーン政権への攻撃で、それまでアルカーイダに庇護を与えてきたアフガニスタンのターリバーン政権が打倒されて資金的・人的に打撃を受けたとされ、アルカーイダの組織は一つ一つが小さな組織に分離しそれぞれが活動を行っている。一方で、オウム真理教のような明確な指揮命令系統を有する組織ではなく、過激思想を持つ者が勝手にアルカーイダを自称しているだけという説もある[1]。
またアルカーイダは、その句の使用者にとって、警鐘として使用していると解釈することもできる[要出典]。ヒジュラ暦の第11月は、ズー・アル・カーイダ(Dhu al-Qi'dah ذو القعدة )である。この月の名称は、前述の翻訳の句と「ズー」という所有格とから構成され、「(神が)所有する(安住の)基盤」という意味合いで、「安住の月」と和訳されることが多い。したがって、アラビア語文化圏の視点から、アルカーイダを解釈すると、「神の所有にない基盤」と訳すことができる。すなわちそれは「異教の基盤(The matrix)」を意味するわけであり、アルカーイダとは、異教の文化圏から侵略を受けた人々並びに世界のムスリムに呼びかける警鐘として使用されているとも解釈できる[要出典]。
起源
アルカーイダの起源は、1978年のソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻以降である。ソビエトに対抗して、CIAはパキスタンのパキスタン軍統合情報局(ISI)とともに「サイクロン作戦」などで、イスラム義勇兵(ムジャーヒディーン)などを訓練、育成し、武装化を進めた。同時に1984年、アラブ諸国からアフガニスタンへ義勇兵を送り込む「マクタブ・アル=ヒダマト」(MAK)がパキスタンのペシャーワルでウサーマ・ビン=ラーディンとビン=ラーディンの師でありムスリム同胞団のアブドゥッラー・アッザームによって組織化された。アッザームがビン=ラーディンをアフガニスタンに呼び入れたのであった。これにはサウジアラビア政府の支援もあった。これにジハード団の創設者であるオマル・アブドゥル=ラフマーンなどが合同し、世界各地からアフガニスタンに集まったムジャーヒディーンは、35,000人に達した。MAKはペシャーワルにゲストハウスを設け、さらにアフガニスタンのジャラーラーバードなどに軍事訓練キャンプを建設した。ソビエト軍のアフガニスタンからの撤退後、闘争の舞台をイスラエルやカシミール、コソボ、アルジェリアなど世界各地の紛争地に求めるムジャーヒディーンが、1988年にアルカーイダを組織した。ここにおいて、アフガニスタンでのアラブ人ムジャーヒディーンを理論的に指導してきたアブドゥッラー・アッザームは、アフガニスタン内戦を最優先するに対し、経済的な側面での実力者であった教え子のビン=ラーディンは世界各地でのテロ作戦を主張、両者の路線対立が表面化した。1989年、アッザームは子供たちと一緒に爆殺された。MAK体制は崩壊、アルカーイダのメンバーはビン=ラーディンの傘下となる。ビン=ラーディンはアラブの英雄としてサウジアラビアに帰国した。
その後、湾岸戦争が勃発、イスラム教の2大聖地・マッカとマディーナを領有するサウジアラビアがアメリカ軍を常駐させたことが、ムジャーヒディーンたちの反米意識を高めさせる。当時、ビン=ラーディンはサウジアラビアに帰国していた。
1992年、宗教指導者で民族イスラム戦線のハッサン・アル=トゥラビの招きでビン=ラーディンは密かにサウジアラビアを抜け出し、スーダンに移った。スーダンではオマル・アル=バシールのクーデターが成功、ビン=ラーディンはスーダン滞在中に建設事業などを進める一方、アイマン・ザワーヒリーなどと組織を強化、しかしテロを続けるアルカーイダはスーダンの厄介者となり、1995年、ビン=ラーディンやザワーヒリーはターリバーンが掌握していたアフガニスタンに拠点を移した。
9/11テロへ
1990年代に始まった闘争は年を追って過激になり、1993年にはニューヨークの世界貿易センタービル爆破事件、同年からの在サウジアラビア米軍基地爆破事件、ケニア・タンザニアのアメリカ大使館爆破事件、イエメン沖の米艦コール襲撃事件に関与したと言われ、アメリカがビン=ラーディンとアルカーイダを訴追した。このため1999年には国際連合安全保障理事会において国際連合安全保障理事会決議1267[2]が採択され、ターリバーンに対してビン=ラーディンとアルカーイダの引き渡しを求められた。2000年にも国際連合安全保障理事会決議1333[3]によって再度引き渡しが求められた。しかしターリバーン政権はこれらに応じなかったため、経済制裁を受けた。アルカーイダの攻撃はやまず、ついには2001年のアメリカ同時多発テロ事件を引き起こしたとされる。
2002年には国際連合安全保障理事会決議1390でビン=ラーディンとアル・カーイダ関係者はターリバーン幹部とともに資産凍結が決定されている。そのほか、東南アジア各国の反政府イスラム過激派組織とのつながりも疑われている。2003年末以降はアメリカ・イギリスの占領統治下にあるイラクにアルカーイダ系の活動者が多数潜入・潜伏し、2004年春にアメリカ人、日本人観光者、韓国人などの民間人が殺害された事件を実行したとみられている。また、2008年に米オバマ新政権に挑発的な報道をしている。
東トルキスタン
新疆ウイグル自治区では、中華民国時代からイスラム教徒のウイグル人は、東トルキスタンとして自立しようとする東トルキスタン独立運動がある。そのうち東トルキスタンイスラム運動は中華人民共和国の共産主義政権からの独立を目指すために、「あらゆる手段を講じても独立を勝ち取る」と宣言しているが、その中でアルカーイダとの係わりを示唆しており、今後テロのターゲットがアメリカに加えて中国全土にも広がる恐れがあると懸念を示していると、2008年4月11日の夕刊フジで報じられた。実際に2008年7月21日に雲南省昆明市内で複数のバスを爆破された(昆明バス爆破事件)ほか、カシュガルで警察に対するテロ事件も発生している。
そのためアルカーイダとの強いつながりが疑われる組織としてアメリカ、中国両政府から認定されている[4]。
イスラム圏での評価
久しくイスラム教の指導者はテロがあるたびに「テロはイスラム教の教えに反する」との声明を出している。
2005年12月9日に閉幕したイスラム諸国首脳会議でも、あらためてテロはイスラム教の教義に反すると明確化された。しかし、イスラム教として、テロ指導者が背教者であるとのファトワは出していない。また、殺害への懸賞金どころか、首謀者等の逮捕についての努力も見られない。
一般的に、ムスリムの多数派、とくにイスラム諸国の政府や宗教指導者はアルカーイダの破壊行為をテロと批判している。しかし、イスラエルやアフガニスタン、イラクの情勢に関して日常的に反米意識を募らせているムスリムの中にはアルカーイダに心情的な共感を寄せる向きがあるとも言われる。9/11テロの際には狂喜乱舞するパレスチナ民衆の映像がマスコミを通じて全世界に流れた。構成員に関しては、異教徒・非イスラム的な生活習慣に取り囲まれ、孤立を感じたヨーロッパなどのムスリム移民の間からアルカーイダに身を投じる者があったことが指摘されている。
その一方、いわゆる「イスラム原理主義過激派」の起こすテロが一般のムスリムをも巻き込んできたこと、またイスラム教が説く慈悲・寛容の精神から外れているとして、「過激派」は現地でもムタタッリフィーン(過激主義者)と称され、社会から異端視されることが多いとされる。
日本での活動
日本との関わりでは、1994年のフィリピン航空434便爆破事件はアルカーイダによるものであるとされ、日本人一人が死亡した。またアメリカで逮捕されたアルカーイダ構成員からの証言によると、2002年に日本と韓国で開催された2002 FIFAワールドカップでテロ活動を計画したが、日本にイスラム教徒が少なく協力者が得られないなどの理由で白紙化されたとの話がある。
2004年10月にはイラクでアルカーイダと関係があるといわれる「イラクの聖戦アルカーイダ組織」によって日本人青年が殺害された。詳細についてはイラク日本人青年殺害事件の項を参照のこと。
2007年2月、米ABCテレビはパキスタン情報筋の話として日本国内でアルカーイダと関係の深いパキスタン人武装組織によるネットワーク化が進んでいると伝えた。
2007年10月29日、日本外国特派員協会で行われた講演の中で、鳩山邦夫法務大臣が「私の友人の友人がアルカーイダ」と発言。「2、3年前は何度も来日していたようだ」とも語った。現役閣僚の発言として大きな波紋を呼び、のちに一部発言を訂正した。詳しくはアルカイダ発言問題を参照のこと。
組織
組織の実態についてははっきりしないことが多い。
a.アルカーイダはその際立った組織力を大きな特色としながらも、国家の中に作られたもう一つの国家ともいうべき「細胞」同士のネットワークだからである[5]。
b.アルカイダは組織というより、CIAによって作成されたデータベースであると田中宇は主張している。[6]。
実際、アルカイダには軍隊のような顕在化した指揮命令系統はなく、各地で発生した反米主義者の中小集団が緩やかに繋がりを持っているだけという説が内外のイスラム研究者達から唱えられている。この説によれば、各集団はそれぞれ自立的であり、必要に応じて協力をしたりされたりという関係に過ぎない。従って、中心となる総本部も最高指導者も存在しない(ビンラーディンは精神的シンボルに過ぎない)ため、頂上作戦は不可能である。上記の説に則ると、各集団がなぜ武装闘争を始めたのかその動機となった根本的要因を解決しない限り、アルカーイダの壊滅は困難であるとされる[要出典]。
テロの特徴
事前にテロの予告を行うことは少ない。予告されることはあるが、これまでに実際にテロが行われたことは無い。ただしこれが本当に予告であったのか、アルカーイダから発せられたものであるのかは検証のしようが無く、また、警戒によって阻止されたものであるのかどうかも確めることはできない。
一方で実行後にインターネット等により犯行声明を行う例が多く見られるが、「アルカーイダの公式サイト」というものは厳密には存在せず、あくまでも「アルカーイダ系とされる組織のサイト」である。また、これらのウェブサイトは攻撃を受けやすい傾向にあり、閲覧しづらいこともある。更に突然閉鎖、もしくは消滅することや、逆に突然開設や再開されることも多い。こうしたウェブサイトは一般にレイアウトが整備されており、組織によっては複数のミラーサイトを有することもある。これらのサイトにはメールアドレスを載せてあることもあるが、多くの場合はアカウントもしくはドメイン名の失効などにより使用できない。また、このようにアカウントを作っては削除されるといった繰り返しは頻繁に行われていたと見られ、ドメイン名やアカウントには組織名に数字を付け足したものが使われていることもある。
こうした事情ゆえか、予告・犯行声明の別を問わず、自らのウェブサイトではなく既存するほかの全く関係の無い掲示板などが使われることもある。特に日本は掲示板やアップローダーを有するサイトが多くあること、その使用方法が整備されており初心者にも使いやすく日本語に精通せずとも扱うための敷居が低いこと、更にはそうした書き込まれた情報やアップロードされたファイルが周知されやすいといった理由からか、使用される傾向が一時期は頻繁に見られた。
テロの手段は、自爆テロ・自動車爆弾が特徴である。また、人を最大限殺傷するために基本的に複数の爆弾を同時爆発させ、事件が注目されるよう考慮して早朝に犯行を行う。
脚注
- ^ PBS
- ^ 安保理決議1267(訳文) 外務省
- ^ 安保理決議1333(訳文) 外務省
- ^ "Eastern Turkistan Islamic Movement". MIPT Terrorism Knowledge Base (2007-05-17). 2007-08-23 閲覧。
- ^ NHKスペシャル『一年目の真実』より。
- ^ 「アルカイダは諜報機関の作りもの」(田中宇の国際ニュース解説、2005年8月18日)
関連項目
- テロリズム
- ムジャーヒディーン
- ターリバーン
- ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線
- イラクの聖戦アルカーイダ組織
- アメリカ同時多発テロ事件
- 米艦コール襲撃事件
- ボジンカ計画
- ウサーマ・ビン=ラーディン
- アイマン・ザワーヒリー
- 宗教テロ
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