definição e significado de アンゴラ | sensagent.com


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Definição e significado de アンゴラ

Definição

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Sinónimos

Locuções

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Dicionario analógico

Wikipedia

アンゴラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アンゴラ共和国
República de Angola


国旗(国章)
国の標語 : 不明
国歌 : 進めアンゴラ!


公用語ポルトガル語
首都ルアンダ
最大の都市ルアンダ
政府


大統領ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントス
首相なし(廃止)
面積


総計1,246,700km²22位
水面積率極僅か
人口


総計(2008年18,498,000人(71位
人口密度9人/km²
GDP(自国通貨表示)


合計(2008年6兆2,565億[1]クワンザ
GDPMER


合計(2008年833億[1]ドル(75位
GDPPPP


合計(2003年1,064億[1]ドル(103位
1人当り6,331[1]ドル
独立
 - 日付
ポルトガルより
1975年11月11日
通貨クワンザAOA
時間帯UTC +1(DST: なし)
ISO 3166-1AO / AGO
ccTLD.ao
国際電話番号244


アンゴラ共和国(アンゴラきょうわこく)、通称アンゴラは、アフリカ南西部に位置する共和制国家。東にザンビア、南にナミビア、北にコンゴ民主共和国と国境を接し、西は大西洋に面している。コンゴ民主共和国を挟んだ飛地カビンダが存在し、カビンダは北にコンゴ共和国と国境を接する。首都ルアンダ

ポルトガル植民地であり、1961年から独立戦争を戦い、1975年に独立を達成した。独立後も1975年から2002年まで内戦が続いたが、内戦終結後は石油ダイヤモンドなどの豊富な資源を背景に急激な経済発展を続けている。しかし、1000万を越える敷設地雷や首都ルアンダの物価が世界一高い[2]など課題も多い。ポルトガル語諸国共同体の加盟国であり、アフリカ最大のポルトガル語人口を擁する国である。

目次

国名

正式名称はポルトガル語でRepública de Angola(レプブリカ・デ・アンゴーラ)。通称、Angola。日本語にするとアンゴーラが近い。

公式の英語の名称は、Republic of Angola(リパブリック・オブ・アンゴラ)。通称、Angolaアンゴラ)。

日本語の表記は、アンゴラ共和国。通称、アンゴラ。国名はかつてこの地を支配していたンドンゴ王国の王号ンゴラに由来する。独立時の1975年から1992年までは正式名称はアンゴラ人民共和国だったが、1992年の憲法改正により現在のアンゴラ共和国となった。

歴史

詳細は「アンゴラの歴史」を参照

この地域には、1世紀頃から主にバントゥー系のアフリカ人が住んでいた。14世紀終わりから15世紀初頭頃に現アンゴラ北部のコンゴ人コンゴ王国を建国し、コンゴ王国は現アンゴラ北西部ザイーレ州に、首都ンバンザ・コンゴ(ポルトガル語ではサン・サルヴァドール)を建設した。

ポルトガル植民地時代

ルアンダポルトガル人総督との和平交渉に臨むンドンゴ王国のンジンガ女王(1657年)。ンジンガ女王を見下していたポルトガル人は女王のために椅子を用意しなかったため、側近が椅子に代わって対等の立場での交渉を繰り広げた。ンドンゴ王国はポルトガル人に敗れたが、ンジンガ女王は今日も多くのアンゴラ人とアフリカ系ブラジル人の抵抗の象徴となっている。

1482年ポルトガル人コンゴ川河口に到着、現地に存在したンドンゴ王国内に基地サン・サルヴァドールを築いた。1490年ポルトガル植民地経営を開始。1575年にパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスルアンダを建設した後、ルアンダを拠点に奴隷貿易を進めたポルトガル人は徐々にアンゴラ内陸部に進出して行き、以降アンゴラはブラジルウルグアイアルゼンチンキューバなど南米西インド諸島への黒人奴隷供給地となった。1617年にベンゲラが建設されると奴隷貿易はさらに拡大し、1576年から1836年までの間に、三百万人の奴隷が大西洋三角貿易の一環としてアンゴラからラテンアメリカに連行された[3]。ポルトガル支配に対し、キンブンド人のンドンゴ王国は激しい抵抗を繰り広げた。特に1624年に即位したンジンガ女王は隣国のマタンバ王国を征服し、数十年に渡って反ポルトガル戦争を続けたが、オランダの進出などの国際情勢の変遷の末に、最終的にポルトガル領ブラジルから派遣された軍隊によってアンゴラはポルトガルに征服され、1661年のハーグ講和条約でポルトガルのアンゴラ領有が国際的に認められた。アンゴラからブラジルに送られた黒人奴隷は脱走してブラジル各地にアンゴラ・ジャンガ(小アンゴラ)と呼ばれるキロンボ(脱走奴隷集落)を築いた[4]

アンゴラ独立戦争を戦うポルトガル軍。1961年から10年以上続いた各植民地での独立戦争は、ポルトガルと植民地の双方を大きく疲弊させた。

1884年から1885年のベルリン会議の結果、ポルトガルはカビンダ以外のコンゴ川流域を失った。ポルトガルは大西洋岸のアンゴラとインド洋岸のモザンビークを結ぶためにアフリカ大陸を横断することを植民地政策の目標としていたが、この政策はアフリカ大陸を縦断しようとしていたイギリスの植民地政策と衝突したため、1890年にポルトガルはイギリスの圧力によって内陸部のザンビアジンバブエから撤退し、翌1891年の条約によってポルトガル領西アフリカはほぼ現在のアンゴラの形に再編された。20世紀に入ると、事実上の強制労働制度とイギリスベルギーの資本により、開発が進められた。この時期にベルギー・イギリス系のディアマング社によってダイヤモンド鉱山の開発が始まり、インフラにおいては1907年にイギリス系のタンガニーカ・コンセッション社によりベンゲラ鉄道の建設が着工され、1929年に完成した。

第二次世界大戦が終結し、脱植民地化時代に入るとアフリカ諸国のヨーロッパ諸国からの独立の波がアンゴラにも押し寄せた。アントニオ・サラザール政権は1951年にアンゴラ等のアフリカ植民地を「海外州」と呼び変え、植民地支配に対する国際社会の非難を避けようとした。アンゴラやモザンビークは形式上本国ポルトガルと同等の立場であるとされ、1959年のポルトガルの開発計画により、アンゴラには5,000万ポンドが投資された。アンゴラには多数のポルトガル人の入植が奨励され、ポルトガル人農園主の経営するプランテーションで栽培されたコーヒーはアンゴラ最大の輸出品目となった。

しかし、形式上の本国との対等の地位と、事実上の植民地政策の矛盾は隠せるものではなく、アンゴラでも1961年9月に、アゴスティーニョ・ネトを議長としたアンゴラ解放人民運動 (MPLA) が武装闘争を開始し、アンゴラ独立戦争が始まった。同時に北部のコンゴ人を主体とし、反共を掲げたアンゴラ国民解放戦線 (FNLA) も独立運動を始め、両者の主導権争いが続いた後に、1966年にジョナス・サヴィンビがFNLAからアンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA) を分離した。MPLAによる解放区の拡大は続き、独立派とポルトガル軍(現地採用の黒人兵も多かった)との独立戦争の末に、1974年のカーネーション革命により、MPLAは1975年11月11日にルアンダでアンゴラ人民共和国の独立を宣言した。

独立と内戦

詳細は「アンゴラ内戦」を参照

しかし、MPLAに主導権を握られるのを嫌ったアンゴラ国民解放戦線 (FNLA)・アンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA) 連合がウアンボ(旧ノーヴァ・リズボア)にアンゴラ人民民主共和国の独立を宣言し、独立直後から、ソ連及びキューバの支援するアンゴラ解放人民運動 (MPLA) とアメリカ合衆国南アフリカ共和国が支援するFNLA、UNITA連合の間で内戦状態に陥った。キューバ軍の支援を受けたMPLAが首都防衛に成功し、政権を掌握したが、しかし、1975年の時点で50万人を数えたポルトガル系アンゴラ人の入植者の大規模な引き上げや、戦争によるインフラ、農地の荒廃によってアンゴラの産業は大混乱に陥った。

アンゴラ内戦の構図。アンゴラ内の赤はMPLA政府支配地域。アンゴラ内の青と赤の斜線は南アフリカ=UNITA連合軍の最大介入地域。

1979年9月、ネト議長が死去し、第2代大統領ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントスが就任。アンゴラ政府はソ連やキューバなど社会主義陣営との結びつきを強め、MPLAによる社会主義建設のために一党制を敷いた。しかし、この間もUNITA/FNLAとの内戦(アンゴラ内戦)が続いたため、多くの人命が失われ、経済は疲弊。さらに戦闘や地雷で負傷してしまった人々も多く発生した。アンゴラ内戦は、政府・反政府勢力がそれぞれ米ソの後援と、それぞれの勢力の代理人であった南アフリカ共和国アパルトヘイト時代)とキューバカストロ政権)の直接介入を受けていたことから、東西冷戦の代理戦争と言われている。

FNLAは1984年に降伏し、南アフリカとキューバも南アフリカがクイト・クアナヴァレの戦いでアンゴラ=キューバ連合軍に侵攻を阻止された後に、当時南アフリカ領だったナミビアの独立とキューバ軍のアンゴラ撤退を交換条件に撤退した。外国軍の撤退後、冷戦体制が集結を迎う国際情勢に呼応してMPLA政権は1990年に社会主義路線を放棄し、翌年には複数政党制の導入を決めた。ポルトガル政府の仲介で1991年5月、MPLAとUNITAがリスボンで和平協定に調印。しかし1992年の大統領選および議会選をめぐる対立から再び内戦に突入した。国連の仲介で1994年11月に和平が成立したが、1998年に武装解除に抵抗したUNITAの再蜂起により内戦が再燃した。

ジョナス・サヴィンビ議長の私兵勢力と化したUNITAはダイヤモンドの密輸を資金源にアンゴラ政府軍と衝突を続けたが(紛争ダイヤモンド)、2002年2月にサヴィンビ議長は戦死し、和平機運が高まったため、3月15日に双方は休戦で合意した。4月4日休戦協定が結ばれ、27年間の内戦に終止符が打たれた。

内戦終結以降

2002年に内戦が終結すると、飛地のカビンダを除いた全土で1961年以来はじめての恒久的な平和がアンゴラに築かれた。内戦終結後、ダイヤモンドや石油の輸出によってアンゴラ経済は急速に拡大しており、周辺国との友好も続いている。しかし、世界一ともいわれる地雷の敷設や政権の腐敗など、課題は多い。

2010年1月には当地で開催されるサッカーの国際大会アフリカネイションズカップ2010出場の為に訪れていたトーゴ代表一行が乗ったバスを反政府勢力が襲撃し、チーム関係者3名が死亡、選手も含めた数名が負傷する事件が起きた。このため、トーゴ代表は出場辞退した。

政治

詳細は「アンゴラの政治」を参照

大統領元首とする共和制国家であり、大統領は国会議員による間接選挙によって選出される。任期は5年。現行憲法は2010年憲法である。2010年憲法の施行に伴い、首相職は廃止された。

アンゴラの大統領一覧」も参照

立法府は一院制の人民議会であり、220名の議席数からなる。

主要政党としてはアンゴラ解放人民運動 (MPLA)、アンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA)、社会改革党アンゴラ民族解放戦線 (FNLA)、新民主選挙連合などが存在する。

アンゴラの政党」も参照

最高司法機関は最高裁判所である。

1961年から1975年までの独立闘争と、建国後の1975年から2002年まで続いた内戦により、極めて不安定な時期が長く続いたが、2002年の内戦終結により漸く安定の兆しが見えている。

国際関係

詳細は「アンゴラの国際関係」を参照

独立時に主導権を握ったのが社会主義を掲げるMPLAだったために、冷戦中は国内の内戦の状況がそのまま親東側政策に結びつき、反政府ゲリラを支援する中華人民共和国南アフリカ共和国アメリカ合衆国、ザイールなどとは敵対政策が続いたが、冷戦終結後は西側諸国との友好関係を深め、全方位外交を行っている。

ポルトガル語諸国共同体の一員であり、ポルトガルブラジルカーボ・ヴェルデモザンビークなどポルトガル語圏の国々(ルーゾフォネア,en:Lusophone)とは深い絆を保っている。

内戦中に現MPLA政府はキューバ軍の援軍と医療援助や教育援助を受けたため、現在もキューバとは友好関係が続いており、キューバの医師団を受け入れている。

隣国コンゴ民主共和国が不安定な情勢であるため、アンゴラもカビラ側での軍事介入を行い、国内にはコンゴ民主共和国人の難民も流入している。

対日関係は1990年代以前は希薄であったが、内戦の終結や豊富な資源等の発見などにより、次第に関係を深めている。2005年には日本大使館が開設された。民間からも難民を助ける会などのNGOが現地で援助活動をしていた[5]

中国の台頭

内戦中反MPLA派のゲリラを支援していた中華人民共和国は、冷戦終結後はアンゴラの友好国となった。中華人民共和国はインフラ整備のためにおよそ20万人[要出典][2]の労働者を送り込み、2007年までに1兆5000億円の資金援助をした。アンゴラは原油の1/4を中国に輸出しており、最大の輸出先となった。アンゴラに利益を還流しない中国の方法にはアンゴラ人からの批判もあり、2004年には反中デモも起きたが、MPLA政権はこれを弾圧した[6]

軍事

詳細は「アンゴラ共和国軍」を参照

アンゴラ軍は陸海空の三軍と、緊急即応警察軍から構成される。独立直後に始まったアンゴラ内戦のため、アンゴラ政府軍はソ連とキューバの支援を受けて南アフリカや中華人民共和国が支援する反政府ゲリラ (UNITA, FNLA) との戦いを繰り広げた。1988年にキューバ軍が撤退した後も2002年にUNITAが降伏するまで内戦は続いた。現在もアンゴラ軍の任務は主に国内のゲリラ組織との戦闘であり、内戦終結後も飛地のカビンダ州の独立を志向するカビンダ飛地解放戦線(FLEC)との戦いが続いており、2010年1月にはFLECによるサッカートーゴ代表への襲撃事件が発生した。

対外的な軍事介入においてはコンゴ民主共和国との関わりが大きく、第一次コンゴ戦争では反政府ゲリラを支援していたザイールに出兵し、モブツ体制崩壊を助けた。第二次コンゴ戦争においてもローラン・カビラジョゼフ・カビラ父子のコンゴ民主共和国新政府支援のために軍を送っている。

兵器体系は旧東側諸国に準ずる。2006年の軍事支出はGDPの5.7%だった[7]

  • アンゴラ陸軍兵力:12万人
  • アンゴラ海軍兵力:3,000人
  • アンゴラ人民空軍及び防空軍兵力:6,000-8,000人
  • 緊急即応警察軍:1万人

地方行政区画

詳細は「アンゴラの行政区画」を参照

番号順に振られたアンゴラの州地図。

18州(províncias)の下に158の市町村(municípios)に分かれている。

  1. ベンゴ州 (Bengo)
  2. ベンゲラ州 (Benguela)
  3. ビエ州 (Bié)
  4. カビンダ州 (Cabinda) → 飛び地
  5. クアンド・クバンゴ州 (Cuando Cubango)
  6. クアンザ・ノルテ州 (Cuanza Norte)
  7. クアンザ・スル州 (Cuanza Sul)
  8. クネネ州 (Cunene)
  9. ウアンボ州 (Huambo)
  10. ウイラ州 (Huíla)
  11. ルアンダ州 (Luanda)
  12. ルンダ・ノルテ州 (Lunda Norte)
  13. ルンダ・スル州 (Lunda Sul)
  14. マランジェ州 (Malanje)
  15. モシコ州 (Moxico)
  16. ナミベ州 (Namibe)
  17. ウイジェ州 (Uíge )
  18. ザイーレ州 (Zaire)

地理

詳細は「アンゴラの地理」を参照

アンゴラの地図。

国土面積は1,246,700km²で、ニジェールに次いで世界で23番目。また日本の約3.3倍の大きさである。

アンゴラ本土(カビンダ州を除く地域)は、南はナミビア、東はザンビア、北はコンゴ民主共和国と国境を接する。また飛び地であるカピンダ州はコンゴ民主共和国とコンゴ共和国に挟まれている。

寒流であるベンゲラ海流の影響により、沿岸部での気候は穏やかなものとなっている。

主要都市

詳細は「アンゴラの都市の一覧」を参照

経済

首都ルアンダの中心街。

詳細は「アンゴラの経済」を参照

長年にわたる内戦によってインフラの破壊や人的資源の損失などが著しいが、沿岸部の埋蔵量80億バレルとされる石油と内陸部に産出するダイヤモンドなどで、経済的な潜在力は高い。内戦が終結し、毎年貿易で30億ドル以上の黒字を記録するなど、これからの発展に十分な期待が持たれる国として外国企業の進出も盛んである。2004年に中国のEximbankは20億ドルの現金をアンゴラに貸し出した。ローンはアンゴラのインフラの再建に使われ、同国における国際通貨基金(IMF)の影響力を制限した[8]

成長はほぼ完全に2005年末の時点で日産140万バレル(220,000 m3/d)を越える石油生産の進展によって推進されており、生産能力は2007年までに200万バレル(320,000 m3/d)に伸びると予想された。石油産業の支配はアンゴラ政府が所有するコングロマリット、ソナンゴル(Sonangol Group)によって強化される。また、2007年1月1日にはOPECに加盟した。アンゴラの石油資源の大半は飛地のカビンダ州に埋蔵されている。石油セクターは急速に成長している部門であり、経済活動全体の向上の原動力であるが、にもかかわらず貧困は依然として拡散している。腐敗の監視人たるトランスペアレンシー・インターナショナルは、2005年にアンゴラを最も腐敗した国家のワースト10にランクした。首都は最も開発され、同国で言及すべき唯一の経済センターだが、ムセーケス(musseques)と呼ばれるスラムがルアンダの周囲を1マイルに渡って取り巻いている。アメリカの保守的なシンクタンクであるヘリテージ財団によれば、アンゴラからの石油生産はアンゴラが現在中国にとって最大の石油供給国であるため著しく増加している[9]

内戦の影響で依然として国内各地に地雷が放置されており、開発の大きな障害となっている。各国のNGOや日本の日立製作所などの技術により、地雷の除去が進められている[10]

CIAワールドファクトブックによれば、実質GDP成長率は2006年に18.6%、2007年に21.1%、2008年には12.3%[7]と非常に高い数値に達した。

近年の急速な経済成長により、2009年現在の首都ルアンダの物価は世界一高くなっている[2]

  • 国内総生産: 614億ドル(2007年)- 世界銀行調べ[11]
  • 一人当たり国民所得: 2540ドル(2007年)- 世界銀行調べ

交通

フラッグキャリアTAAGアンゴラ航空が国内主要都市の間を運航している他、アフリカ大陸の近隣諸国やヨーロッパ、南北アメリカ大陸の主要都市との間を結んでいる。なお同社は、近年アメリカ製の最新鋭機であるボーイング777ボーイング737-800を次々と導入し、サービス向上に力を入れている。

陸上交通においては、植民地時代にベンゲラ鉄道が建設されたが、内戦中に操業が停止した。現在中華人民共和国の援助により、復旧作業が進んでいる。

国民

詳細は「アンゴラの人口統計」を参照

アンゴラ国内の諸部族の勢力範囲を示した地図(1970年)。
2005年のFAOによるアンゴラの人口増加グラフ(1961年-2003年)。
ルアンダの女性。
ベンゲラの教会。

15世紀以来長らくポルトガルの支配下に置かれ、ラテンアメリカへの奴隷供給源となったため、アフリカの中でも人口密度が極めて低い国の一つとなっている。

民族

アンゴラの民族は、オヴィンブンド人37%、キンブンド人25%、コンゴ人13%などバントゥー系黒人諸民族が大半であるが、メスチーソ(白人と黒人の混血、いわゆるムラート)が2%を占め、1%ほどポルトガル系ポルトガル系アンゴラ人)を中心とするヨーロッパ系市民も存在し、その他が22%となる[7]。また、アンゴラ内戦時に派遣され、現在も帰れないまま残留しているキューバ兵が10,000人ほど残っている。その他のマイノリティとしては中国人華僑)など。両ンブンド人は併せて人口の62%を占める。北部のコンゴ人はかつてコンゴ王国の担い手だった民族であり、国境を越えたコンゴ民主共和国やコンゴ共和国にもまとまった数の集団が存在する。

アンゴラは2007年末で12,100人の難民と、2,900人の亡命希望者を抱えていると推測されている。2008年には400,000人のコンゴ民主共和国人の移民労働者が存在したと見積もられ[12]、少なくとも30,000人のポルトガル系アンゴラ人[13]、少なくとも20,000人の中国人がアンゴラに住んでいる。独立前の1975年には約500,000人のポルトガル人のコミュニティを抱えていた[14]

言語

アンゴラの公用語ポルトガル語であるが、90%以上の住民はキンブンド語ウンブンド語コンゴ語リンガラ語などのバントゥー諸語を話す。なお、ポルトガル母語話者数は国民の20%程だと見られている[15]

宗教

アンゴラの宗教キリスト教が最大で人口の53%を占め、そのうちの72%がカトリック、28%がバプティストプレスビテリアン、改革福音派、ペンテコステ派メソジスト、キリスト教カルト[16][17][18][19]などである。残り内訳は土着宗教が47%である[7]

教育

詳細は「アンゴラの教育」を参照

アンゴラの学校。

法律によれば、初等教育の8年間は必修かつ無料であるが、政府の報告によれば、学校施設と教員の不足により、かなりのパーセンテージの生徒が学校に出席していない[20] 。生徒はしばしば教科書や学用品など学校関連の追加支出を負担する[20]。1999年には、初等教育の総就学率は74%であり、1998年には、初等教育の純就学率は61%だった[20]。総就学率、純就学率は共に公式に初等学校に登録された生徒の数を基にしており、それゆえ実際の学校出席数は反映する必要がない[20]。地方部と都市部の間の就学は顕著な分裂を続けている。1995年には、7歳から14歳までの71.2%の児童が学校に出席していた[20]。男子の方が女子よりも出席率が高くなる傾向が報告されている[20]。アンゴラ内戦(1975年-2002年)の間、半数近い学校が略奪、破壊されたことが報告されており。現在の混乱を伴う問題を招いている[20]。教育省は2005年に20,000人の新教員を雇い、教員の訓練を実行している[20]。教員は薄給、訓練不足、過重労働の傾向がある[20]。教員はまた生徒からの直接の支払いや賄賂に頼っていると報告されている[20]。その他には、地雷の存在、資源とアイデンティティ紙の不在、劣悪な健康状態が児童が定期的に学校に通うことを妨げている[20]。2004年に教育予算の分配は増加したにも関わらず、アンゴラの教育システムは極度に資金不足である[20]

2001年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は67.4%(男性:82.9% 女性:54.2%)である[7]。2005年の教育支出はGDPの2.7%と、世界的に見ても低い数値だった[7]

主な高等教育機関としてはアゴスティーニョ・ネト大学(1962)やアンゴラ・カトリック大学(1999)が挙げられる。

保健

アンゴラのHIV/AIDS」も参照

2007年の調査では、アンゴラではナイアシンが少なく欠乏した状態が一般的になっていると結論付けられた[21]コレラマラリア狂犬病マールブルグ熱のようなアフリカ出血熱などの伝染病は、国内のどの地域でも一般的な病気となっている。同国の多くの地域では結核の感染率と、HIVの感染率が高い。デング熱フィラリアリーシュマニア症、onchocerciasis(川失明)は虫によって媒介されるその他の病気であり、この地域でも発生する。アンゴラは乳幼児死亡率が世界で最も高く、平均寿命が世界で最も短い国の一つである。

文化

詳細は「アンゴラの文化」を参照

ポルトガルは400年以上の長きに渡ってアンゴラを支配していたため、アンゴラの文化は言語や宗教、サウダーデの感覚など、ポルトガルの文化の影響を非常に強く受けている。

アンゴラ独自の文化ではないが、ブラジルカポエィラサンバアルゼンチンウルグアイタンゴカンドンベなどのアフリカに起源を持つ文化は、アンゴラから連行された黒人奴隷の文化が基になったものである。

食文化

この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。

音楽

詳細は「アンゴラの音楽」を参照

キンブンド人の音楽だったアンゴラのセンバは、ブラジルに渡ってサンバとなった。1947年にリセウ・ヴィエイラ・ディアスが中心となって結成されたンゴラ・リトモスは新たなセンバを創始し、アンゴラのポピュラー音楽の方向を決定づけた。ンゴラ・リトモスによって方向づけられたアンゴラのポピュラー音楽は、1960年代から独立後を通してセンバが主流となり、ボンガヴァルデマール・バストスパウロ・フローレスのように、国際的な成功を収めたミュージシャンも現れた。センバ以外にアンゴラ発祥の音楽のジャンルには、フランス語圏西インド諸島のズーク(Zouk)とセンバのクロスオーバーであるキゾンバが存在し、アンゴラ発祥のクラブミュージックであるクドゥーロも、近年世界的に注目を集めている。近年は、同国初のゴシック・メタルバンドであるネブリナや、キゾンバのネイデ・ヴァン=ドゥーネン(Neide Van-Dúnem)が活動している。

文学

詳細は「アンゴラ文学」を参照

アフリカ文学」も参照

『マヨンベ』の著者、ペペテラのサイン。
現代アンゴラの作家、ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ。2007年にアフリカ人として初めてインデペンデント紙外国フィクション賞を受賞した。

文字によるアンゴラの文学は、ポルトガル語によって19世紀半ばに始まった。これは、カーボ・ヴェルデの文学の成立と同時期であり、モザンビークに半世紀先駆けたものであった[22]。文学において、アンゴラ文学はポルトガル文学との差異を強調する傾向があり、この傾向は独立以前の文学において、ポルトガル文学に対するこだわりを強く持たなかったモザンビーク文学との差となった[22]

アンゴラの詩は1960年代の独立戦争の頃に大きく高揚した。独立戦争の指導者であるアントニオ・ディアス・カルドーゾマリオ・ピント・デ・アンドラーデアゴスティーニョ・ネトや、亡命者のアルリンド・バルベイトスなど、多くの政治的な人物によりポルトガル語詩が作られた。

小説においては、20世紀前半にポルトガル人行政官としてアンゴラに駐在し、作品を著したフェルナンド・モンテイロ・デ・カストロ・ソロメーニョや、『ルーアンダ』(1961)などで知られ、キンブンド語とポルトガル語を巧みに融合してノーベル文学賞受賞も取りざたされ[22]、現地の口承文学などを取り入れてポルトガルによる植民地支配を描いたジョゼ・ルアンディーノ・ヴィエイラ、アンゴラ独立戦争における解放軍の戦士の心情描写を通してアンゴラ人の心を描いた『マヨンベ』(1980)[23]で知られ、1997年にカモンイス賞を受賞したペペテラ、ジャーナリストであり、伝記文学や『過去の売人』[24](O Vendedor de Passados,2004)で2007年のインデペンデント紙外国フィクション賞を受賞したジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザらがアンゴラの著名な作家の名として挙げられる。

祝祭日

祝祭日
日付日本語表記現地語表記備考
1月1日元日Ano Novo
2月4日武装闘争開始の日Dia Nacional do Esforço Armado独立を求めて宗主国ポルトガルへの闘争を開始した日
3月8日国際女性デーDia do Trabalho
3月27日勝利の日
4月14日青年の日
5月1日メーデーDia do Trabalho
6月1日子供の日Dia Internacional da Criança
8月1日国軍記念日
9月17日国民的英雄の日Fundador da Nação e Dia dos Heróis Nacionais最初の大統領アゴスティニョ・ネトの誕生日
11月11日独立記念日Dia da Independência
12月1日開拓者の日
12月10日MPLA労働者党設立記念日
12月24日クリスマスイブ
12月25日クリスマスNatal

スポーツ

詳細は「アンゴラのスポーツ」を参照

アフリカ屈指のバスケットボールの強豪として知られており、2006年バスケットボール世界選手権では日本などと対戦し、3勝2敗のBグループ3位で決勝トーナメントに進んだ。

サッカーでも代表チームが予選でナイジェリアなどの強豪を破り2006 FIFAワールドカップに初出場した。本大会ではポルトガルメキシコイランと対戦。旧宗主国との対戦があり、この大会の一つの注目点ともなった。結果は1敗2分けで1次リーグ敗退に終わったものの、強豪メキシコに引き分けるなど健闘した。

2010年にはアンゴラでアフリカネイションズカップ2010が開催されたが、FLECによるトーゴ代表襲撃事件が発生するなど痛ましい大会となった。

著名な出身者

詳細は「アンゴラ人の一覧」を参照

脚註

  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ a b 東京より物価が高い国がアフリカに!世界一物価高の国アンゴラ。 2009年6月12日 11:152009年8月28日閲覧
  3. ^ 福井英一郎:編『世界地理10 アフリカII』朝倉書店、1998年 p.136
  4. ^ シッコ・アレンカール、マルクス・ヴェニシオ・リベイロ、ルシア・カルピ/東明彦、鈴木茂、アンジェロ・イシ:訳『ブラジルの歴史 ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003年1月 pp.62-63
  5. ^ 難民を助ける会はアンゴラで唯一の日本のNGOです 2009年8月23日閲覧
  6. ^ 松本仁一『アフリカ・レポート 壊れる国、生きる人々』岩波書店(岩波新書)、2008年8月 pp.121-123
  7. ^ a b c d e f CIA World Factbook2009年12月13日閲覧
  8. ^ "The Increasing Importance of African Oil". Power and Interest Report (March 20, 2006). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  9. ^ Into Africa: China's Grab for Influence and Oil
  10. ^ Hitachi Theater 地雷廃絶への挑戦-アンゴラの地雷原に挑む- 2009年8月23日閲覧
  11. ^ http://ddp-ext.worldbank.org/ext/ddpreports/ViewSharedReport?&CF=1&REPORT_ID=9147&REQUEST_TYPE=VIEWADVANCED&HF=N&WSP=N
  12. ^ World Refugee Survey 2008 - Angola, UNHCR
  13. ^ Angola, U.S. Department of State
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  15. ^ 寺尾智史「南部アフリカ・アンゴラにおける多言語政策試行」
  16. ^ http://books.google.com/books?id=DeVqVy21g9sC&pg=PA40&lpg=PA40&dq=presbyterian+church+in+angola&source=bl&ots=3KbFI1zxSt&sig=vzJ0gD-4N2h0KgEIN9E8SebEh34&hl=en&ei=UnqKSsi_GoWwswPK_4XTDQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1
  17. ^ warc.ch/update/up132/09.html
  18. ^ wcc-coe.org/wcc/what/regional/african-mchs.pdf
  19. ^ http://books.google.com/books?id=C5V7oyy69zgC&pg=PA539&lpg=PA539&dq=presbyterian+church+in+angola&source=bl&ots=KP8Anxs5Mb&sig=sEo9W7xjWU3x0o-ancv2pi1UWIo&hl=en&ei=UnqKSsi_GoWwswPK_4XTDQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=5#v=onepage&q=&f=false
  20. ^ a b c d e f g h i j k l "Botswana". 2005 Findings on the Worst Forms of Child Labor. Bureau of International Labor Affairs, U.S. Department of Labor (2006). This article incorporates text from this source, which is in the public domain.
  21. ^ Seal AJ, Creeke PI, Dibari F, et al. (2007 January). “Low and deficient niacin status and pellagra are endemic in postwar Angola”. Am. J. Clin. Nutr. 85 (1): 218–24. PMID 17209199.
  22. ^ a b c 市之瀬敦「モザンビーク文学と公用語問題」『モザンビーク 「救われるべき」国の過去・現在・未来』「モザンビーク」刊行チーム、拓殖書房、1994年11月
  23. ^ 青山森人「アンゴラ人でしか書けないアンゴラの根っこ」『社会思想史の窓第118号 クレオル文化』石塚正英:編 社会評論社、1997/05
  24. ^ 日本語未訳のため、葡語のタイトルから独自に訳した

参考文献

  • 芝生瑞和『アンゴラ解放戦争』岩波書店〈岩波新書〉、1976年1月。
  • 星昭、林晃史『世界現代史13 アフリカ現代史I 総説・南部アフリカ』山川出版社、1978年。
  • 福井英一郎:編『世界地理10 アフリカII』朝倉書店、1998年。
  • 青木一能『アンゴラ内戦と国際政治の力学』芦書房、2001年10月。
  • 「モザンビーク」刊行チーム」『モザンビーク 「救われるべき」国の過去・現在・未来』拓殖書房、1994年11月。
    • 市之瀬敦「モザンビーク文学と公用語問題」『モザンビーク 「救われるべき」国の過去・現在・未来』「モザンビーク」刊行チーム、拓殖書房、1994年11月。
  • 『社会思想史の窓第118号 クレオル文化』石塚正英:編 社会評論社、1997年5月。
    • 青山森人「アンゴラ人でしか書けないアンゴラの根っこ」『社会思想史の窓第118号 クレオル文化』石塚正英:編 社会評論社、1997年5月。
  • 金七紀男『ポルトガル史(増補版)』彩流社、2003年4月増補版。
  • 池谷和信「アンゴラの多様な民族の生活」『朝倉世界地理講座 アフリカII』池谷和信、武内進一、佐藤廉也編、朝倉書店、2008年4月。
  • 松本仁一『アフリカ・レポート 壊れる国、生きる人々』岩波書店〈岩波新書〉、2008年8月。
  • 寺尾智史「南部アフリカ・アンゴラにおける多言語政策試行」『国際文化学』32、pp.33-66, 神戸大学大学院国際文化学研究科、2009年7月。

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外部リンク

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